「豊臣兄弟!」第20話「本物の平蜘蛛」あらすじ・感想|秀吉、死罪寸前——久秀との決断
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第20話「本物の平蜘蛛」を徹底解説。秀吉の死罪宣告、羽柴家の嘆願、松永久秀との談判、平蜘蛛の史実、久秀の最期の真相まで詳しく解説。…
「延暦寺焼き討ち」——信長の行動の中で最も賛否が分かれる事件のひとつ。このドラマはその判断の「正しさ」を問わない。代わりに、命令を実行した人々が何を「覚悟」したかを問います。「覚悟」とは何か——タイトルの問いに、このドラマは複数の答えを用意していました。
浅井攻めのために宮部継潤の調略を成功させた小一郎(仲野太賀)は、戦いの前線を着実に支えていた。
一方、信長(小栗旬)は浅井・朝倉を匿い続ける比叡山延暦寺への攻撃を決断。藤吉郎(池松壮亮)と明智光秀(要潤)に延暦寺攻めを命じた。
寺社への武力行使という「覚悟」——それが信長への服従なのか、天下のための必要悪なのか、それとも単なる力による暴力なのか。小一郎は複雑な思いを抱えながら、それでも現実の中で自分の仕事をするしかなかった。
延暦寺焼き討ちを命じられた光秀が、何も言わずにその命令を受け入れる場面。要潤さんが演じる光秀の最大の特徴は「内に秘める型」です。
怒鳴らない、反論しない、しかし何かを積み上げている——その静かな蓄積が恐ろしい。「覚悟」を決めた光秀の顔が、視聴者には「本能寺への伏線」として読める。だからこそ、このシーンは複数の意味を同時に持ちます。光秀がいつ、何のために「覚悟」を使うか——その問いが静かに始まりました。
小一郎が宮部継潤という武将の心を動かした場面は、このドラマが繰り返す「調略術」の良質な例でした。
「なぜ戦う必要があるのか」を相手に問い直させる——強制ではなく気づきを促す小一郎のアプローチは、毎回形を変えながら同じ本質を持っています。剣より言葉、命令より説得——これが秀長の武器であり、このドラマが描き続けるテーマです。
直接延暦寺攻めに加わらないが、その結果の中で生きていく小一郎。「自分は何に覚悟をするのか」という問いが、暗黙のうちに彼に突きつけられていました。
信長の天下布武の一部であり続けることへの覚悟、弟が兄を支え続けることへの覚悟、勝者の側にいながら敗者の命を軽視しないことへの覚悟——小一郎の「覚悟」は複数あり、そのどれも言葉にされません。
延暦寺焼き討ちは1571年9月のことです。元亀元年(1570年)から信長は浅井・朝倉との戦いを続けており、比叡山がその勢力を匿い続けたことへの報復という側面がありました。
現在の史学では、焼き討ちの規模について江戸時代の誇張も含まれているという見方もあります。しかし信長が寺社の「聖域」を問わず攻撃したことは、当時の社会的衝撃は大きかったとされています。光秀がこれに加担したことが後の本能寺の変の遠因の一つとする解釈も根強くあります。
同じ「覚悟」でも、光秀と小一郎のそれは質が異なります。
光秀の覚悟は「信念を曲げてでも主君に従う」という服従の覚悟。小一郎の覚悟は「自分の信念を保ちながら現実の中で動く」という折り合いの覚悟。
光秀が覚悟を溜め続けて最終的に爆発するとすれば、小一郎は覚悟を少しずつ放出しながら長く生き続ける。この違いが二人の人物の運命を分けているのかもしれません。
「覚悟の比叡山」というタイトルは、誰の覚悟かを明示しません。信長の覚悟か、光秀の覚悟か、小一郎の覚悟か——複数の人物の複数の「覚悟」が交差するタイトルです。答えを一つに絞らないことで、視聴者それぞれが「自分が最も注目した人物の覚悟」を持ち帰れる。このオープンな設計が第16話の最大の妙でした。
「覚悟」というタイトルの意味が重い回でした。
信長の天下布武は正しいのか。間違っているのか——そこに答えを出さず、登場人物それぞれの葛藤と決断を丁寧に描くのが、このドラマの誠実さです。善悪の判断を視聴者に委ねながら、人間の複雑さを正直に描く。この姿勢が「豊臣兄弟!」を単なる英雄譚ではない深みを持つ作品にしています。
室町幕府の終わりと、浅井家の最後が迫ります。第17話「小谷落城」では、足利義昭の京追放と浅井長政の自害という二つの「終わり」が重なる、圧倒的な密度の回が待っています。
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